週末、市内を自転車で回ってきた
中学から高校の頃は自宅から芦原橋までよくタイムトライアルをしていた
その頃は25分くらいで行けたけれど、鈍った脚のせいか40分近くかかってしまった
エンジン(心肺)の劣化も目立ってなかなかに落ち込む結果となった
帰路、阿波座近くまで戻ってきてフッと思い立ち左折
川口から本田を抜けて波除に
15年近く前、毎日自転車で走り回った地域
思い出すだけで体の震えとともに後悔が押し寄せてくる場所
あの職場を辞めたときは、港区に足を踏み入れる日が来るなんて思ってもいなかった
あのときにお世話になったH田さん、ずっと気にかかっていたY岡さんの工場を探す
少し町並みは変わったけれど、見た記憶・走った記憶のある飲食店、路地etc.
でも見つからなかった
何度も記憶の場所を回り、家々の表札も確認したけれど無い
もしも会えたなら、H田さんに詫びたかった
そして叶うならばN田さんに手を合わせたかった
H田さんもN田さんも、私があの職場で苦しんでいるときに力になろうとしてくれた人たちだ
N田さんは、あの頃自分の方が辛かったはずなのに、私に助けの手を差し伸べてくれた
でもあのとき私は素直にN田さんの手を掴めなかった
N田さんの厚意を素直に受け取れなかった
そして、N田さんは自裁した
N田さんの大きなだみ声、大きな背中を忘れたことはない
N田さんを息子のように可愛がっていたH田さん
N田さんが亡くなったことを知ったあと連絡を取った
言われたのは「N田のことも、俺らのことも、港のことも全部忘れや。あんたは前に進め」
その後、電話をしても年賀状を送っても返信はなかった
いまもずっと詫びることができないまま、忘れることもできないまま
Y岡さんは私と同年代で30前後に父親の急逝で跡を継いだ
私はずっと彼のことを尊敬していた
自分の持てる力でなんとかサポートしたいと思っていた
だからよく彼の工場に顔を出すようにしていた
私があの職場を辞めるとき、彼の工場に潜在的リスクがあることは分かっていたしその対応方法も検討していた
だが、対応よりも前に私の心が壊れた
結果として私は彼を見捨てた
それもずっと心残りだった
工場があったはずの場所には全く別の会社名
周辺をどれだけ探しても彼の名字の表札は見つからなかった
私が逃げ出した、逃げ出さざるを得なかったあの職場
でも逃げ出したことで、私は多くの人を見捨てた
その現実
今回は、今回こそは同じ過ちを繰り返したくない
今の職場で働くようになり、15年近くの時間が経ち、最近私の中の時計の針がやっと動き出したと感じている
あの頃の私と今の私は違う
そして私の周囲の人々も環境も全く違う
今度は見捨てない、逃げ出さない
やれるだけのことを全力でやりきる
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