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『桜とは何か 花の文化と「日本」』

 4月の読書記録・佐藤俊樹著『桜とは何か 花の文化と「日本」』 感想をまとめると以下の2点 1. 中国における花=「内なる内」としての牡丹、日本における花=「外なる内」としての桜、の対比は鮮やかであり説得的 2. 学問を学ぶということは、それがどれだけの苦痛を伴ったとしても、事実...

『町の本屋の御書山さん』

 弾みでKindle版を頼んでしまい、流れで全巻(3巻)読了。
本屋大好き人間として、本屋でこんなほんわかした人間関係があったら良いなぁと思える漫画だった
御書山さんと不破くんの何とも言えない距離感も甘酸っぱくて。
高校時代の同級生(中学3年間同じ塾だった)Nくんを思い出すなど、懐かしさをくすぐられた。
GWはセンター街のジュンク堂にでも遊びに行こうかしら。



『桜とは何か』の読書記録が遅れている。
昼休みを利用して読む予定が、仕事に追われて半分ほどしか読めていない。
祝日を利用して読了、記録をつける予定。

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このブログでは「甘利」だとか「葉梨」だとかは使いません
比較的硬めのスタイルでやっています
適当に思いついたことを書くのは青空でやりますので、あちらでのお付き合いをよろしくお願いします

26年

週末、26年ぶりにTさんと会った

そもそも今回の再会のきっかけは昨年末に開催された高校の同窓会
同窓会(同期会)の案内が届いたとき、ちょうど飼い猫(上の黒猫)の闘病末期でいつ看取りが必要になるか分からない時期だった
猫の看取りを優先したかったこと、仕事も詰まりはじめていたこと、某市議をやっているM氏と顔を合わせたくなかったことetc.
同期のグループLINEにだけ登録して欠席した

同期グループLINEの参加者にTさんの名前を見つけたとき、ただただ懐かしかった
中学・高校と6年間同じ学校で過ごしたが、同じクラスになったことは一度もなかった
接点は中学時代の剣道部だけ
彼女が私にどういった感情を持っていたかは知る由もないが、私はずっと畏怖に近い何かを感じていた
同じ一人っ子で、剣道を中学から始めた点も同じ、中学1年時点の背の低さも同じくらいだったが、勉強の出来は彼女の方が良かった(中学3年間で彼女はぐんぐん背が伸びて私は置いてきぼりをくらった)
人とのコミュニケーションの取り方もスマートで、人付き合いも上手かつ丁寧
嫉妬を覚えることすらできないほど、彼女は欠点の無い完璧な人間に見えていた
そんな彼女とは高校の卒業式を最後にずっと会っていなかった
人生で重なる時期もあれば離れる時期もある
26年間は離れる時期だったのだと思う
今回、私の方から彼女に連絡をとった
彼女が仕事勤めの傍らコーチングも行っていると知ったからだ

話は変わるが、私の担当しているお客様にコンサルタントをされている方がいる
その方が以前うちの事務所のHP投書欄にこのように書かれていた
「経営上の問題解決も現場がその気にならなければ絵に描いた餅」
「現場がその気になる手法として、コーチングやKJ法、ファシリテーション…(後略)」
私は一従業員にすぎないので「経営上の問題解決」などできるわけではない
だが、いま事務所内に大きな不協和音が響いていることやそれが人材不足に拍車をかけている点に心を痛めている
ならば自分ができることをできる範囲でやらなければいけないだろう
(それが経営陣の不興を買うならば、そのときはそのときだ)
コーチングで何ができるのか、調べてみても今一つよく分からなかった
ならばその道のプロに聞いた方が早いと思いTさんに連絡を取ったのだ

26年ぶりに会った彼女は歳を重ねた以外、何も変わっていなかった
もちろん今の仕事・勤め先でのポジション等で色々と人生分の❝重み❞は増していると感じたが、シルエットも話し方も凛とした佇まいも昔のままだった
食事をしながら4時間近く
26年間何をしてきたのか、お互いの業界の状況、人手不足に対する愚痴、社会・政策について思うところ等々
うちの事務所の状況も、私の見えている範囲のことを話した

彼女の行っているコーチングはトラストコーチング
どういった事を目的とするのか聞きながら、ひとまず私が受けてみて体験するべきだと思った
それが事務所にとってプラスになるかどうかは分からない
それでも今の状況を少しでも変えていくために役に立つのならば、やってみる価値はある

コーチングの開始は6月下旬
手持ちの仕事のピークが5月末から6月上旬に来ると想定しての日程
それまでに事務所の状況と私の心身が崩壊しないことを願いながら

「守る」とは

ここ数週間、手を取られ続けていたお客様がいた。
そのお客様への対応のために休日出勤が必要となり、また他のお客様への対応が後回しになっていた。
状況は当然上司にも報告し、休日出勤の許可を得て対応していた。

先週ようやく終わりが見えてきたところ、上司からそのお客様との契約破棄を伝えられた。
先方の意向ではなく、こちら側からの契約破棄である。
まだ事務所内で公表されてはいないもののいずれは明らかになる話。
同僚(といっても役職持ち)にその話を伝えた。
彼から返ってきたのは「良かったじゃないですか」だった。
確かに客観的に見れば❝良かったこと❞なのだろう。
手だけかかり、実入りは少なく、そして疲弊だけしていく❝作業❞。
そういった❝面倒ごと❞から解放されたと受け取るべきなのかもしれない。
それでも......

お客様を守れなかったとの思いが拭いきれない。
自分の甘さ、心の中にあった状況への甘えを今突きつけられている。
お客様を「守る」ために自分は精一杯努力したのか?
真剣にお客様と向き合ってきたのか?
状況に甘え忙しさを理由にして適当に付き合ってきたのではないか?
ときに厳しいことも言わなければいけない、ときに相手を怒らせてでも喧嘩をしてでも指摘しなければいけない。にもかかわらず、それを避け自己保身のために❝優しい❞ことだけ言ってやり過ごしてきたのではないか?

正解は単純なものではないのだろう。
上司には上司なりの理由があって契約破棄を決定したと分かっている。
経営判断の中で新規顧客への対応も考えていたはずだ。
全体を見ての判断だからこそ、一従業員の立場で何かを言えるはずもない。
ただ私自身の今後を考えたとき、今回の悔しさは忘れたくない。
だからこそ、このブログに書きとめておく。


追記
このお客様との一件だけをもって「守る」ことを考えたのではない。
別のお客様からお尋ねのあった件を上司に相談した際の上司の厳しさ、原則を揺るがせない姿勢を見て思い知らされた。
お客様を守るというのはどういうことなのか。
自分が❝いい人❞であろうとしてはいけない。それが伴走者の役割・務めだと。
自分の中にある「❝いい人❞でいたい」欲を乗り越え、ときに恨まれ嫌われても伝えるべきは伝えなければいけないと。
そして伝えるべきことを伝えるためには、それだけの知識・経験の蓄積が必要なのだと。

ありきたりなこと

 この時期の常ではあるけれど、どうしても書いておきたい
出会いがあって別れがある
新しい職場で働くようになって1年3カ月
何人も辞めていき、その度に別れが辛かった
新しい人が入ってくるワクワク感よりも、辞めていく彼・彼女たちの心のうちを考えてしんどかった
おひとり(或いは2人?)を除けば、未来を夢見ての退職ではなかったはずだ


今月末、一人の子が退職する
入社当初隣の席でいろいろと所内の手続きや流れを教えてもらった
癖のある子だとは思う
まだまだ精神的に子どもだなと思う部分が多々ある
本人としては社会人らしく振舞おうと頑張っているのだろうけれど、それが社会の求める水準に達していないのだと思う
私自身が彼女の隣の席であることに耐えられず、上司に席替えをお願いした
だから他人を非難する資格などない

だからこれから書くことは懺悔だ
「もしかして...」と思いながら、自分の不快感を優先して彼女に手を差し伸べなかった自分の非道さを忘れないための殴り書きだ

ヤマアラシのジレンマ
昨年の12月頭くらいだったか、彼女が事務所の雰囲気に怯えていることに気付いた
怯えているからこそ、事務所の空気・雰囲気に負けまいとして敢えて強気に出ているのだな、と
そして無理に強気に出ることで更に孤独感を深めている、と
本当は誰かに「大丈夫だよ」と言ってほしいんだろう、と
「ちゃんと成長しているね、えらいね」と認められたいんだろう、と
だが私はそれを言わなかった
それをするのは私の役割ではない、と線を引いて逃げた
私が話しかけると彼女は怯えるから、彼女は泣きだすから、だから私は接しない方が良いのだと言い訳をして、見て見ぬふりをした
あの頃の事務所の空気・雰囲気・陰口を思い出したとき、彼女の絶望感はどれほどだっただろうと思う

彼女はまだ20代半ば
これから先いろいろな人に出会うだろう
うちの事務所で起きた嫌なことは10年もすれば忘れていく
陰口やそれを言った人達のことなど、数年で記憶の遥か彼方に消え去るだろう
学んでよかったこと、反省したこと、出会えてよかった人、感謝することetc.
未来につながることだけ反芻して、前を向いてうちの事務所を❝卒業❞してほしいと思う

何もしなくてごめん
そして、ありがとう

復帰

2年ぶりのブログ更新。
誰も見ていないとはいえ、さすがにサボりすぎと反省する。

一昨年の半ばからずっと走り続けてきた。
本を読む量も極端に減った。読む本も所謂ビジネス書と呼ばれるものが多くなった。
新聞は紙を広げて読むスタイルから電子版メインになってしまった。
人としてどうだろう?と思いながらも、自分に言い訳をして今の暮らしを続けている。

大学時代の恩師・小田中直樹先生から言われた言葉をかみしめる。
「古典と呼ばれる本、思考を深められる本を読めるのは大学生のうちだけですよ」
「社会人になればビジネス書や仕事に必要な本しか読めなくなりますからね」
ヒトラーの『我が闘争』やダーウィンの『種の起源』が経済学部生の読むべき古典だったかはさておき、今となっては読んでおいてよかったと思う。

私の場合、幸いにして資格試験の受験専念期間があった。
そのときウェーバーの『職業としての学問』と『職業としての政治』を読む時間がとれた。
読んだからどうだったというわけではない。何かを得たと言えるほど読込めたわけでもない。
それでも教養として「ウェーバーの本を読んだ」「思想のエッセンス的なものに触れたことがある」というだけで意味がある。自分の中にMax Weberという本棚の枠だけでも作っておけたのだから。(ゼミで『プロ倫』を読んだ以上、本棚はできていたのだが)


ということで、もうそろそろいい加減積読を減らしていかなければならない。
神野直彦先生の『財政学』(有斐閣)は体力のあるうちに読んでおかなければ一生読めない予感がする。
ハーバーマスから攻めるか神野直彦から先に手を付けるか悩ましいが......。

次の読書記録は、佐藤直樹の『桜とは何か』(河出新書)。
『不平等社会日本』『桜が創った「日本」』は大学時代に読んでなかなか衝撃を受けた。
今回どのような感想を持つのか、何を考えさせられるのか分からないが、落胆や反発しか残らなかったとしても記録として残したい。
今月末のブログ更新を目標に、まずは読了を目指す。


追記
加藤紘一著『テロルの真犯人』の読書記録は加藤の命日(重陽の節句)が近付いた頃に上げたいと思います。
もうこれ以上暴力によって政治的な目的を達成しようとする人間が現れないことを祈って。