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『桜とは何か 花の文化と「日本」』

 4月の読書記録・佐藤俊樹著『桜とは何か 花の文化と「日本」』 感想をまとめると以下の2点 1. 中国における花=「内なる内」としての牡丹、日本における花=「外なる内」としての桜、の対比は鮮やかであり説得的 2. 学問を学ぶということは、それがどれだけの苦痛を伴ったとしても、事実...

生き方

 最近、またサクラ大戦の曲をよく聴くようになった
(BlueSkyを見ている方はご存知でしょうが、私がサクラ大戦を聴くときは精神状態があまり良くないのです)

歌謡ショウの曲を聴きながらふと気付いた
この曲を作っていた頃の広井王子は、今の自分と同じくらいの年齢だったのだと
サクラ大戦にハマっていた頃は40代半ばなんて随分な大人だと思っていたが、自分がその年齢になってしまえば20代の頃と大して変わらない精神性
成長とは何なのだろう?

とはいえ「不惑」とはよく言ったもので、実際40を過ぎてから自分の中のじゃじゃ馬を飼い慣らせるようになってきたのも事実
単に精神的に暴れまわるほどのエネルギーが無くなっただけかもしれないが

話を戻そう
40代半ばの頃の広井王子が作った歌を聴きながら「自分にこれだけの言葉があるだろうか?」と考えた
いま出てくる言葉はこれまでの生き方の現れ
20年後に使う言葉はこれからの人生の積み重ね

プロデューサーであれサムライ業であれ、問われるのは自分という人間そのもの
これまでの生き方、いまの生き様をさらけ出してお客様と向き合うしかないのだろう

繰り返されること

 事務所の仲間がまたひとり、今月末で退職する
昨年は10月、11月、12月と3カ月連続で退職者が出た
今年に入ってからは3月、4月、5月と続いている
何とかしようと私なりに模索し、上司にもいろいろと言ってはいるが止まらない

上司たちも手探りで状況の改善に努めている
ボスは以前に比べて積極的に挨拶をするようになった
以前よりも大きめの声で、誰に対しても「おはよう」と声をかけている
副所長も以前より柔らかく対応するよう努めているのがわかる
できるかぎりにこやかに、穏やかにと
ひとりひとりが変わろうとしている

ただ、溜まり続けた膿のようなものがなくなるには時間がかかる
膿は次の膿を生む
排出するスピードが速いか、それとも膿むスピードが速いか
事務所の一人一人の心の中のせめぎ合いの結果が、事務所全体の方向を決めていくだろう

なんとか踏みとどまれるよう、私も常に葛藤し闘っている

トラウマ

 私のBlueSkyアカウントから来た人は知っていることだが、私はある種の犯罪被害者だったりする
正確には幼少期に誘拐(既遂)被害も受けているので、犯罪×2被害者なわけだが

5月はちょうど被害を受けた時期と重なり精神的に厳しい
被害を受けたときとかけ離れた状況であってもふいに思い出すことがある
思い出してしまった日はなかなか寝付けず、どうしても睡眠不足気味になる
いま多くの会計事務所がそうであるように我が事務所も繁忙期真っ只中
睡眠不足は一番の敵なのだが…

上司たちには私の犯罪被害について報告していない
報告したところで対応に困るだろう

いまはただこの季節が過ぎ去ってくれることを祈るのみだ

5月の予定

 4月の予定であった『桜とは何か』の読書記録を端午の節句にようやく完了

5月は公益法人の決算・申告を複数抱えていることもあり、読書記録の対象を自分の興味関心が強い分野にする
本籍が政治クラスタ・政局界隈(住民票は税務クラスタ)のため、次の読書記録は『吉田茂と岸信介』安井浩一郎・NHKスペシャル取材班著(岩波書店)

端的に言えば保守本流VS保守傍流(自民党傍流VS自民党本流)の話
もととなったNHKスペシャルは戦後70年の記念で製作されたものなので、10年前の作品となる

この10年間で社会は大きく様変わりした
いつまでも続くように思われた安倍官邸はコロナウイルスによって自主退陣し、その後を受けた菅義偉内閣も1年で退陣
自民党内で完全に隅に追いやられていた保守本流・宏池会による本格政権が30年ぶりに誕生したかと思いきや、ロシアによるウクライナ侵攻が勃発
国内では安倍晋三暗殺事件により30年ぶりに統一教会の霊感商法がクローズアップされ、新興宗教による被害が注目を集めた
政治とカネの問題もリクルート事件以来35年ぶりに自民党を大きく揺さぶっている
まるで昭和の末期から平成初期をなぞるかのように
(湾岸戦争・合同結婚式・リクルートコスモス)

ただし30年前と大きく違う点がある
30年前、世界は民主化に沸いていた
鉄のカーテンが開き、東欧は民主化され、ソヴィエトは崩壊した
天安門は鎮圧されたが、韓国や台湾の民主化を見ていれば中国もいずれは民主化されるのではないかと思えた時代だった
いま世界は全体主義に覆われつつある
‟効率”の悪い民主主義よりも意思決定効率の良い独裁を求める民衆が増えている
それは「自由からの逃走」をするかのようだ

10年前のNHKスペシャルで描かれた世界と何が変わり何が変わらなかったのか
それを確認する意味で読了し記録をつけたいと思う

『桜とは何か 花の文化と「日本」』

 4月の読書記録・佐藤俊樹著『桜とは何か 花の文化と「日本」』

感想をまとめると以下の2点
1. 中国における花=「内なる内」としての牡丹、日本における花=「外なる内」としての桜、の対比は鮮やかであり説得的
2. 学問を学ぶということは、それがどれだけの苦痛を伴ったとしても、事実に向き合い‟物語”を越えていく作業なのだろう


1. 中国における花と日本における花の対比
本書で紹介されていた詩の中で最も印象に残ったもの、それが元稹の「折枝花贈行」
 桜桃花下送君時
 一寸春心逐折枝
 別後相思最多処
 千株万片繞林垂
著者はこれに次のような訳をつけた
 桜の花の下で別れる君を送る
 一片の春の心が折られた枝を追う
 別れた後の想いこそが最も深い
 千本万片の花が林を覆って垂れる
現代の日本に通じる花の愛で方を唐代の中国でも行っていた証拠として紹介されている
著者は日本語圏の桜に強烈な魅力があることを認めつつ、だからといって「そこに何かの必然性や絶対性、あるいは神秘性を求める」行為を否定する
あくまでも、日本における桜の特異さや独異さは経路依存性の効果にすぎないとする
同時に著者は、意味づけの形式にすぎないと仮定することによって「人々が桜にかけた具体的な気持ちや想いを、より明晰な形で感じたり知ったりすることができる」と考える
そこで出てくる事例が花鎮祭だ
なぜ花を鎮めなければならないのか?
そもそも花(=桜)が散る時期とはどのような季節だったのか?
江戸時代以前の人口データから見えてくるのは春が人の死にやすい季節だった点だ
千葉県松戸市の本土寺というお寺の過去帳を調べた研究によると「死亡は旧暦の春から初夏に集中しており、逆に晩秋から初冬には死者が最も減るのである。……食料が底をつく端境期に生命を維持できずに死亡する人がきわめて多く、それが中世の地域を生きる人びとの一般的なあり方だった」「五月は明らかな死亡率の低下が認められるという。これは夏麦の収穫月であり、その収穫により飢えが一時緩和されることになる」(湯浅治久『戦国仏教』182頁、中公新書、2009年)
春の死亡率上昇は、飢え・栄養状態だけの問題ではない
春は人間が活動的になる季節だ
体力(免疫力)の落ちた人間が多くいるうえに、その人間が活発に動き出せば感染症は拡大する
「桜の花は(中略)文字通り生死を分かつ時間の到来を告げるものでもあった。」「根元に本物の死骸が転がっている。そんな年も何度もあったはずだ。」
「むしろそのことがさくらを「外なる内」にしつづけた要因の一つだったかもしれない。」
「だから、桜の春は怖しいものでもあった。だからこそ、桜の花は畏しいものでもあった。中世の人々が桜に向けた痛切な想いはそのようなものだったと思う。」
「牡丹の花の美しさが「内の内」から異次元へ突き抜けるような何かだとすれば、日本の桜の美しさは「外」から襲いかかるような何かでありつづけた。」
著者はこのように想像する

コロナ禍で人の姿が絶えた街に咲く草花、特に桜の美しさを見せつけられたばかりの今ならば、その禍々しさがよく分かる
街のあちこちでひっそりと感染症に苦しみながら人が死に絶えていく異常さのなか、例年と変わらない美しさを見せつけた桜を覚えている今ならば、桜の持つ外部性を意識できるだろう


2. 学問とは
本書で書かれている通り、この本は周辺データを可能な限り集めた上で組み立てられた「仮史」である
仮説的に構築された論理であり‟正しい歴史”と呼べないのは確かだ
そして歴史学と呼ばれるものはたいてい「仮史」に周辺事実・文献の批判的検証を加えて‟より確からしい歴史”を探す作業だ
その味で「ありうる」歴史を「ありうる」歴史として提示している本書は歴史学の本だとも言えるだろう

私は所属こそ経済学部であったものの、ゼミナールが社会思想史研究という名の歴史学にも足を突っ込んだところだった
ゼミで最初に読んだ本はアナール学派について書かれた新書、担当教官(恩師)は大塚久雄の孫弟子で専門はナポレオン3世時代のフランス経済
当時新しい歴史教科書をつくる会の活動が活発になってきていた時期だったこともあり、ゼミの雑談の中でも「歴史とは何か」「歴史学とは何か」を話す機会が多かった
大河ドラマを歴史の再現ドラマだと捉える人、司馬史観を「正しい歴史」と捉えたり歴史学と並べて語る対象だと考える人など、歴史学は常にフィクションからの浸食が多い学問との認識があったためだ
人は曖昧で不確実なものを嫌うが故に唯一の「正史」を求める
しかしそれは学問としての歴史学ではない
本書の中で著者も指摘している
「物語られる歴史はつねに甘く、優しい。不安な心を宥めて、癒してくれる。意味が砂山のように崩れていくのを、押しとどめてくれるように見える。(中略)そのために科学的な知識や歴史的な事実を無視してまで、「ありたい歴史」が語られてきた。」
この指摘は桜語りだけに当てはまる話ではない
起きたこと、起こしたことを教え・学ぶ教育を指して‟自虐史観”だと言い、より‟誇らしい”歴史を教えるべきだとする考え方が広まった(恩師曰く「自慰史観」)
国内だけを考えるならば歴史をつかって自ら愛撫だけしていれば良い
それ(‟自慰史観”)によって周囲の国々、あるいは同盟国との関係に溝ができたとしても、自らが癒されることの方が優先されるべきだと考える人がいてもおかしくはない
ただしそれは学問ではない
学問を学ぶ(大学で学士号を取得する)意味とは、自らの感情・感傷を乗り越えて事実と向き合い‟より確からしいもの”に向かって行く姿勢を身に付ける点にあると私は考える