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『桜とは何か 花の文化と「日本」』

 4月の読書記録・佐藤俊樹著『桜とは何か 花の文化と「日本」』 感想をまとめると以下の2点 1. 中国における花=「内なる内」としての牡丹、日本における花=「外なる内」としての桜、の対比は鮮やかであり説得的 2. 学問を学ぶということは、それがどれだけの苦痛を伴ったとしても、事実...

限界?

 先日書いたことの流れとして、昨日は限界を迎えていた。
チーム決算の最終コーナー。
うちのチェックミスが散見され、その度に先方に連絡して謝る。
原因を説明しつつ、うちの態勢でどこまでできるか、先方にしていただきたい範囲はどこかを探りながら会話する。
そんなことをこのひと月ほど繰り返してきた。

それと同時に、ミスが判明し原因究明する度に先方への不満や嫌悪を示す同僚(先日の彼女)の話を聞いて宥めることも行ってきた。
彼女の負荷を下げるつもりで彼女担当部門のトラブルを引取り、GWを3日ほど潰して対応にあたった。彼女のためというよりは先方のためであり、ひいてはうちの事務所のためと考えて行った。
ただ彼女の言動から判断して、負荷が下がったことで余裕が生まれて不満や嫌悪感が減るわけではなく、むしろ増大してしまったように見受けられる。
余裕が生まれたことで、上司たちに見つからないところで行うようになってしまった。その捌け口が私だった。
結果としては私の見立てが甘かっただけなのだが、彼女の感情の“吐瀉物”をぶつけられ続けた上に業務としての顧客対応も並行していたことで限界が来てしまった。それが昨日。

さすがに危ないと思ったが、いのちの電話もこころの健康相談統一ダイヤルも生きづらびっとも繋がらなかった。
世の中、ギリギリで踏みとどまっている人の多さを実感した。

結局踏みとどまれた要因は先方との会話。
先方の各部門から電話が入り、決算の進捗状況を伺い対応しているうちに、大波が去って行った。
因果なもので、仕事(同僚)に追い詰められ仕事(顧問先)に救われた。

ボスがかつて書いたブログに「仕事」というタイトルの記事がある。
「緊張感も承認(感謝)もない仕事は、本来仕事とはいえないのかもしれない。」
私にとってあの顧問先は、ボスの言うところの「仕事」なのだろう。
そんなことを考えた。

自宅でリモート作業(別顧問先)をしていたところ、共有PCとの接続が突然遮断された。
原因はうちのチームリーダーが共有PCにアクセスしたため。
連絡を取り、彼にそのまま使ってもらうことで話は落ち着いたのだが。
昨日一日の中で一番ホッとした時間だったかもしれない。
顧問先対応をしているのが私だけではないと実感した瞬間だった。
GW中といい、見えないところでちゃんとリーダーとして動いてくれている彼にはいつも感謝している。
見えないところでやっている分だけ、周囲から誤解されたりもしているが。
淡々と黙々と仕事を進める彼を見習いたいと思う。

臨機応変

今日の日経新聞・春秋欄を見て思う。
人は非常時にこそ本質が出るのだ、と。

「近年の日本企業は野性味に欠ける感もあったため、連日伝えられる臨機応変の対応に励まされる。人の器はこういう非常時に試され鍛えられるのではなかろうか。実際の出来事を基にしたこの映画では各人物が自分の後ろには誰もいない覚悟で職責を果たす。」

この間ずっと迷っていることがある。
私が今のチームでいろいろと手を出しすぎているから、彼女は覚悟が固まらず、結果として顧問先に対する不平不満を当然の如く口にするのではなかろうか?と。
覚悟を固めるしか無い状況に追い込むことで、彼女にこのチームでの仕事の面白さを(強制的に)実感させた方が良いのではないか?と。

ただ、彼女にその“器”があるのか?と不安に思う。
今のチームになって2回目の決算。
昨年の今頃は連日残業時間になると事務所内で号泣していた。
それに比べれば今年はマシだが、その代わり他人(前任者)や顧問先に対する攻撃性が増している。
根本的に人としての“強さ”がないのだろうと思う。
そんな彼女に覚悟を求めたとて覚醒する保証はなく、むしろ折れるリスクの方が高い。

私はこのチームの管理者でもなければリーダーでもないのだけれど。
そんなことをグダグダと考えながら自分のあり方に悩んでいる。

そう言えば、一昨年から昨年上半期にかけての自分のテーマが「来た球を打ち返す」だったことを思い出した。
岸田文雄の姿を見て、そして二階俊博の凄さを見せつけられて、それで選んだテーマだった。
今の自分が課題をクリアできているかは分からないが、それでも以前に比べれば多少は融通がきくようになったかもしれない。(杜撰でいい加減になっただけかもしれないが)

昨年下半期からのテーマは「人との関わりの中で自分のなすべきことを見つける」。

傲慢だろうが、やはり私の根底には母校で徹底的に植えつけられた“エリート意識”があるのだな、と自覚する。
自分に力があるのならば、能力があるのならば、それを必要としている人のために使わなければ価値がない、そう思う。
それこそが、高校3年間「君たちはエリートだ。いずれこの国を動かしていく人材だ。だからこそ、受験のためだけではない知識を学ばなければならない」と言われ続けた意味なのだろう。

話を戻す。
ボスから「(今の法人の仕事)チームが1人になってもやる気あるか?」と尋ねられた。即座に「それでもやりたいです。もちろん、パートさんの手を借りなければいけないときは出てくると思いますけど。それでもやりたいです」と答えた。
根底にあるのは、自分の中にある「満たされなかった子ども」の部分を救いたい想いで、決して崇高な理想を持っているわけではない。
ただ幸いにして、私は今の仕事を通じて、子どもたちを支える人たちを少しだけ後ろから支えることができる立場にいる。だから即答した。(ここだけの話、大好きだった塩崎恭久が里親として活動していることも少しだけ理由にあったりするのだけれど)

これからどうなるかは分からない。
ボス含め、上長sがどう考えどう判断するのか。
当分はまな板の上の鯉。
判断が下されたら、そのとき臨機応変に対応するしかない。