注目の投稿

『桜とは何か 花の文化と「日本」』

 4月の読書記録・佐藤俊樹著『桜とは何か 花の文化と「日本」』 感想をまとめると以下の2点 1. 中国における花=「内なる内」としての牡丹、日本における花=「外なる内」としての桜、の対比は鮮やかであり説得的 2. 学問を学ぶということは、それがどれだけの苦痛を伴ったとしても、事実...

地続きの戦後

今日2026年8月14日、日経新聞のコラム・春秋
「玉音放送は人々に放心と安堵、生の決意をもたらし今と地続きの戦後が始まる。その前日、闇の中にいた14日のこの国を想像したい。なお猛る者、塞ぐ者、終わりを探る者。町からは大人の男性の姿が減り、少年らは特攻の死を、女性らは自決を覚悟した。闇を忘れずにいることは光の価値を思い起こすことにもつながる。」

確かに間違いなく今と地続きの玉音放送だった
81年前の今日、この国が闇の中にいたことも間違いない
「でも…」と思う私が異端なのだ


Twitter時代、Mastodon時代、そしてBlueskyに移ってからも何度も書いてきたから、SNS経由でここに来ている人は知っているだろうが
私は明日8月15日のことを毎年「敗戦の日」と呼んでいる

その真意は…
「日本という国にとっては間違いなく“敗戦の日”であった
同時に、そこに暮らす国民にとってはあの体制からの“解放の日”でもあった
故に8月15日は“終戦の日”なのだ」
という順番を踏みたいから

敗戦の日であるということ
そしてその敗戦に至るまでの経緯のなかで、当時の日本国民が犯した過ちがあるということ
その過ちは、人類そのものの過ちでもあるということ
その重みを受け止めることなしに、ただ「終わった」というだけで片付けてはいけないほどの厄災であり、人災であったということ

そういった前提のうえに立つ8月15日にしたいと思っているから


8月ジャーナリズムと言われて久しい
8月に入ると「これでもか」とばかりに先の大戦の話がテレビで流れる
その中身も私が子どもの頃からは様変わりした
加害の歴史を語れる人はほぼ亡くなった
被害の歴史はまだ語り部が残っている
だから否応なく「国民はこんな悲惨な目にあった」という話が流れる
そこでは、2.26で軍部に喝采を送った国民の姿や、植民地(そして沖縄)の人々を当たり前に蔑視し差別し搾取を続けた一般国民の姿は見えてこない

ならばこそ…と思う
大阪の片隅で暮らすおばちゃん1人くらいは、ずっとブツブツ言い続けても良いだろう、と思っている
我々は、日本は、加害者であったのだ、と
間違いなく加害者であったし、そしてまた被害者でもあったのだ、と



追記

報道1930を見ている
最近は見なくなっていたのだが、福田康夫が出ていたために見てしまった
福田Jrの語る“空気”という言葉の文脈は、かつて加藤紘一が書いた「地上5mを浮遊する風船」や「自由電子」の作り上げる“空気”と同じだ、と私は受け取った
本当の“保守”の行き着く答えは同じところになるのだな、と思った
そして、私たちが危惧すべきは“大日本帝国の復活”ではなく、日本における“ワイマール共和国の再来”ではないのかな?と
これはまあ、以前からTwitter等で書いてきた私の持論なのだけど
(だから保阪正康の考えには同意できない部分も多いのだけれど)

0 件のコメント:

コメントを投稿