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『桜とは何か 花の文化と「日本」』

 4月の読書記録・佐藤俊樹著『桜とは何か 花の文化と「日本」』 感想をまとめると以下の2点 1. 中国における花=「内なる内」としての牡丹、日本における花=「外なる内」としての桜、の対比は鮮やかであり説得的 2. 学問を学ぶということは、それがどれだけの苦痛を伴ったとしても、事実...

蹲(つくばい)

今日も考えることが多くて
感情も理性も限界寸前で
でも今日だけは十二国記の新刊『幽冥の岸』を買いたくて
それで三宮センター街のジュンク堂に向かった
本当は旭屋で買いたかったのだけど…定休日だったためやむを得ず

人との出会いや付き合いは偶然であり、そして奇跡のようでもあり
そんなことをツラツラ考えた
お客様に感謝のメールを送りながら


前から何度も書いているが、私はいまの事務所を辞めたくなかったし、辞めずにずっと続けていくのだと思っていた(思い込もうとしていた)
でも少しずつ感じている
私はこの事務所の異物だったのだ、と
ここは止まり木であって終の住処ではなかったのだ、と
悲しく辛く寂しいことだけれど

ボスの言うように、私には独立が向いているのだろう
異物が異物のままで存在できる場所は自分の事務所しかないのだろう
人と群れたい触れ合いたいと強く願い望んでも、私には叶わぬことなのだろう
上手く妥協できずにぶつかり続ける
私とはそういう人間なのだろうから


“吾唯足知”


小学6年くらいの頃から龍安寺が好きで、小中高の頃は休みの日に1人で龍安寺まで出かけていた
嵐山で降りて天龍寺から大覚寺、大沢池から広沢池の横を通り、仁和寺にお参りしてから龍安寺まで
嵐山駅からは全部徒歩で
龍安寺で石庭をただ眺めて、そして満足してバスに乗って河原町まで戻るのがいつものルートだった
いまは観光客だらけと聞くから行く気にもなれないのだけれど

話を戻す

いま自分自身に言い聞かせようとしている
「吾唯足るを知る」と
受け入れるしかないのだ、と
叶わぬものは常にあるのだ、と
そう言い聞かせることで自分を納得させようとしている
そう言い聞かせることで、叶わなかったときの傷を浅くしようとしている
最初から諦めていれば叶ったときは嬉しいし、叶わなかったときは自分を嗤ってやり過ごせるから

龍安寺の蹲の意味はわかっている
決して私がやっているような、自己防衛用に物分かりのいいフリをするための言葉ではない
でも諦めなければいけないと思うから
自分に言い聞かせるための言葉がほしい


それでも
それでも
私は想い願ってしまう



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